2017年11月18日(土)浜離宮ホールでリサイタルほか

謹啓
皆様お変わりなくお元気でお過ごしのこととお慶び申し上げます。
私は
退職以来毎年秋に行っておりますリサイタル3年目に当たり、自分のDNAの本性を探るべく北欧に焦点を絞ることといたし、今回は浜離宮朝日ホールにおいて11月18日(土)の午後に「北欧プログラム」によるリサイタルを開催いたします。
今年がデンマークと日本との友好条約締結150周年というお祝いの年に当たりますので、その記念に同国の誇る作曲家ニールセンの作品を演奏いたします。また、自分の「ピアノの為の変奏曲」を再演し、私の父方の祖母の国、フィンランドのシベリウス、そしてノルウェイのグリ-グの作品を演奏いたします。
生粋のブロンドであった私の祖母、渡邉シーリが生まれた1890年(明治23年)は、シベリウスとニールセンが25歳、グリーグが47歳でした。ヘルシンキの国立音楽学校(現シベリウスアカデミー)に優秀な成績で在学していた18歳の時(1908年)に、キリスト教の勉強で留学していた2才年上の忠雄と結婚し、シベリウス、グリーグ等の楽譜を多く持参して長野県長池村(現在の岡谷市長地)の本家に嫁いできました。
その天性の美声で若い曉雄に祖国の歌を多く聴かせていたこと、当時のラジオJOAKに出演して歌ったこと、また多くの生徒さんを目黒区洗足の自宅で教えていたこと等々、父から話をたくさん聞いた次第です。
音楽家3代目の私の音楽的ルーツを探るこのリサイタルにご友人、ご家族の皆様方など、是非とも多数をお誘いあわせの上でのご来場を頂戴いたしたく、ここにチラシを添えてご案内申し上げます。

謹白

今年は12月8日(金)、9日(土)のサントリーホールにおける日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に出演します。短いながら超難曲の八村義夫作曲「錯乱の論理」です。

私の父方の祖先の出身地、長野県諏訪群長地村、現在の下諏訪の隣、で第19回目となる「北欧音楽祭すわ」が行われており、そこで今年初めて10月8日(日)にリサイタルを行います。

 

 

1983年のNHK-FM「午後のリサイタル」(当時34歳)

ユーチューブにこの音源があったので掲載します。

当時、ブラームスの作品ばかりでリサイタルを続けており、これが第4夜の曲目に入っていました。

 

ブラームス:自作の主題による変奏曲 Op.21-1

ブラームス:ハンガリアン・ダンス No.1, No.7, No.4

 

2016年11月12日(土)東京リサイタル

今夏の新居浜リサイタルのチラシです

渡邉康雄 新居浜リサイタル2016

今夏のリサイタルです

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良い批評が音楽の友の1月号に出ました

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15年ぶりの東京リサイタル無事終了

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お陰様で満席になりました。皆様、ご来聴を本当にありがとうございました。

 

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音楽現代11月号に記事が出ました

音楽現代の11月号に記事が出ました。

音楽現代2015 11月号(1)音楽現代2015 11月号(2)

クラシックニュースで動画が見れます

津山国際総合音楽祭

瀬戸大橋が開通した1987年に第1回津山国際総合音楽祭が開催された。父、渡邉曉雄が、その晩年の大仕事として命をかけて創始した音楽祭だ。あらゆる市民を巻き込むのが夢であった父は「総合」の文字を入れるのにこだわった。歌謡曲から「お母さんいらっしゃい」まで、音楽であらゆる層の人たちに感動を!がスローガンであった。当時の作陽音大の理事長は、なぜ「作陽音楽祭」ではいけないか、東京の自宅まで問い詰めに来た。地方の私大の名前を冠にしたら、音楽世界は注目しないと、理路整然と説いて話したと、後程知らされた。作陽音楽大学が縁の下の力持ちになってこそ、作陽の名が全日本に轟くという父の見識が、いかに正しかったか・・。

その初回の「津山国際総合音楽祭」の総合プログラムの内表紙

第1回津山音楽祭内表紙

以下2ページが全プログラム。

第1回津山音楽祭(1)

第1回津山音楽祭(2)

その時の音楽副監督を勤めていた船山隆藝大教授が、僕を助監督に引き込む提案をした。父の本気度アップにつながる、渡邉家総動員で当たる体制づくりだ。僕の履歴書を「預からせてください」と言った船山が、作陽音大の根回しを行い、特任助教授という形で年に数回来て教えることになったのが、その第1回音楽祭の次年だった。

第2回の津山国際総合音楽祭の開催に向けて、各種の会議が行われ、そこに自分が全部出席させられた。
いかにプログラムビルディングを行うか、その激論、下調べから、契約に持っていく作業を、目の当りにさせられた。
テーマ作曲家を据え置き、それが第1回からマーラーに決められていた。

地元からは、「マーラーだかラーマだかしらんが、そんなの無理だ」との強い反対意見が第2回に対しても続出していた。
意に介さない父は、マーラーの孫娘を招聘し、国際マーラー協会の重鎮を招聘し、N響の演奏会のゲネプロで楽員に全員を紹介する。驚いたN響団員諸氏は、これはただの普通の音楽祭ではないことを自覚し、東京でも行わないような熱演を展開した。
実に見事な采配であった。
創意と知恵と工夫が、父と船山にあった。

この非常に面白い企画に、作陽は燃え上がり、教職員は音楽に携わって本当によかったと自覚した。
その中に入れていただき、自分は実に痛快であった。

なにしろ、父は津山にアパートを借り、津山用に車まで購入していたのだ。大変な熱の入れようであった。

第2回津山国際総合音楽祭の開催年、1990年の6月22日に父が亡くなった。奇しくもその日は父が創めた日本フィルハーモニー交響楽団の創立記念日であった。