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秋の演奏会のお知らせ

今年の秋の演奏会のお知らせです。

9月22日(土)新しく結成されたオーケストラ、春日部フィルの第1回演奏会です。

 

渡邉家発祥の地、長野県下諏訪における「北欧音楽祭すわ」の演奏会2つ。

1.ホルンとピアノの響き 10月7日(日)

チラシにはありませんが、ノルウェー大使館の依頼により私のソロでグリーグ「抒情小曲集」より8曲を演奏いたします。

 

2.地元在住の世界的バリトン歌手の吉江忠男氏と「冬の旅」を致します。10月21日(日)です。

 

以上。

今夏の蓼科リサイタルです。久しぶりに巡礼を弾きます

6月の演奏会です。

6月2日に我が国最高のホルン奏者の大野総一郎さんと演奏会をいたします。3000m級の山々のそびえる長野県安曇野市でです。穂高岳、乗鞍岳などが間近な町です。初めて行くので楽しみにしているところ。お近くの皆さん、是非ご来聴ください。心よりお待ちしています。

 

長男の記事です

セオドア・レトヴィン先生

僕が19歳だった1968年9月の新学期から、当時42歳だったセオドア・レトヴィン 先生についた。当時のレトヴィン先生は年間80回前後の演奏活動をしていた現役バリバリのコンサートピアニスト。そのレッスンは12人の生徒を週1回教えるというもの。朝7時から始め、休み無しで夜7時まで。そしてその30分後の7時半から夜中12時までマスタークラス。そこでその日のレッスンで弾いた曲を皆の前で弾かされる。レッスン室にはコーヒーメーカーの他にトマト、キュウリ、ニンジン、チーズ、パンなどがあり、ご自分で召し上がる他に、力み過ぎている学生に、弾いている最中に口に押し込む。これが実におかしかった。4拍子の曲を「3拍子に勘定しろ」だの、キュウリ食べながら弾かされたり、挙句の果ては、リズムの悪い生徒に対し、ピアノの蓋の上にあがって先生自身が飛び回って踊りだす。体重100キロ超の、まるで肉屋のオヤジ風の先生が乗ってもピアノの蓋は割れないと初めて知った。牛一頭を背負って船からの積み下ろし作業をしたという先生の学生時代のアルバイトの話は、誠に真実味を帯びていた。本当にダイナミックな先生だった。

 

そのレトヴィン先生が2か月のヨーロッパ演奏旅行に出ることになった。約10曲の協奏曲を弾くツアーだとのこと。マスタークラスの最中に「誰かリハーサルで伴奏したい人いますか?」と聞かれた。「是非やらせて欲しい」と僕が挙手。それ以来、彼のご自宅にしょっちゅう行っては伴奏をするようになった。夜8時ころからリハーサル。チャイコフスキー、皇帝、モーツァルト20番、24番、リスト「死の舞踏」、R.シュトラウス「ブルレスケ」、ラフマニノフ2番、パガニーニ狂詩曲、サンサーンス2番、ブラームス2番などなど。これら10曲を一晩で練習。終わると夜中3時。みんなで寝ようと、僕は長男ローリィちゃんの室のベッドに。次の朝7時には「bright and ugly!」と先生に起こされる!日本語訳「不愉快な朝だぞ!」(笑)。

 

ずいぶん何回もリハーサルに行った。そこで本当のプロの練習というものを知る。「なんでここが弾けない」と怒り、「いや、こうすると弾ける」等々、苦労をさらけ出していた。ピアニッシモを上手に弾くには「象の足を連想する」と言い出す。あの体重なのに足音は聞こえない。あれがピアニッシモを弾く神髄とのこと。先生の指の爪の根本から出血したこともあった。ブラームスPコン2番だった。弾けなくて、とてつもなく大きな音で弾きだし、ピアノが本当に壊れそうだった。あの大きな人がゴリラのように弾く。プロの凄まじさに圧倒された。

 

サンサーンス2番をボストン交響楽団の定期演奏会で当時の音楽監督のスタインバーグ(William Steinberg)指揮で弾いた時のこと。その恒例のシンフォニーホールでのオープンリハーサルで、耳打ちするようにスタインバーグが「な~んてつまらねぇこと弾きやがるんだ」と先生に言う。そしてほとんど倍ちかいモーレツなテンポでやりだした。レトヴィン先生はついて行けずに音をはずしまくり。そのリハーサル後に「Yasuo, come with me!」と彼の家に引っ張り込まれ、その晩の深夜2時くらいまでかかって全曲を倍の速さで弾けるように猛烈な特訓。翌日からの4日続きの本番は大成功だった!

 

隣のロードアイランド州の首都プロヴィデンスのアマチュアオケがショパンのPコン1番の練習ピアニスト探してるらしいけど、ヤスオ弾いてみるか?と先生に言われた。その日から3週間後。もちろん弾いたことなかったけど「やります」と答えて2週間たったころに、今度はカーネギーホールでR.シュトラウスのピアノ協奏曲「ブルレスケ」を1か月後に弾けるピアニストを探してると校長経由でのニュースを察知。すぐさまレトヴィン先生に電話して「譜面だけでも見せてください」と頼みこんで彼の家に直行。彼は僕にショパンをやらせてたから、他の人を考えていた。「絶対オレが!」と猛烈に意気込んで、楽譜だけでもの痛烈な思いが通じ、結局僕がやることになった。その電話の8日後が最初のオケ合わせ。もちろん全部カンペキにアンプして行った。まだ覚えている。1971年11月11日にレトヴィン先生宅にブルレスケの楽譜を拝借に行き、11月19日がブルレスケ初オケ合わせ。その4日後にショパン1番をオケと弾き、憧れの殿堂カーネギーホールのステージには12月11日に。この演奏会は幸運にも母が来ていて聴いてくれた。レトヴィン先生ご夫妻、それに親友たち3人もボストンから来てくれた。本当に思いで深い演奏会となった。トランジスタラジオのスピーカー前に置いたマイクで録音したカセットテープがあり、今でもたまに聴く。アナウンサーがうまく名前を発音できず、「ヤスエ~・ワンタナーベー」となっている。

 

当時22歳。オケはニューヨークユースシンフォニーオーケストラで、指揮者はアゼイヤ・ジャクソンだった。

2018.3.20 ボストンでの留学生活

ピアノを教えるということは、学生一人一人の身になって何が本当に必要かを見極めて指導して行くことが最重要だと思うので、在職時は自分の大学時代のことはあまり話さずにいた。今改めて自分が在籍した11年に及ぶ音楽学校時代のことを思い返し、今回はボストンのニューイングランド音楽院時代のことを書く。

満18歳だった高卒後の1967年9月に生まれて初めて飛行機というものに乗り、最初にホノルルの知人宅に行き、数日を過ごしてからボストンに行った。エコノミークラスが満席でファーストクラスに座らせられ、スチュワーデスに親切にしてもらい、機内の窓から下を見た光景などは昨日のことのように鮮明に脳裏に残る。到着したボストンは、暑かった東京からは想像できないような初秋で、人々はコートを羽織っていた。その10月に隣のニューハンプシャー州に連れて行ってもらった紅葉狩りは、この世の物とは思えぬ程に本当に美しかった。

新興国家アメリカ最古の文化都市。1773年の茶会事件で有名なボストン。バーンスタインの出身校ハーヴァード、ヘレン・ケラーの出身校ラドクリフ、マサチューセッツ工科大学,ボストン大学、ジャズのバークリー音楽大学等のあるアメリカの最高学府。僕の恩師の家はケネディの生家のすぐそばだった。野茂英雄、上原浩治のボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイパークのすぐ傍のビルに住んでいたこともある。主にイギリスからの移民が開拓した地なためニューイングランド地方という。ニューロンドンなんて地名まであった。

学校から徒歩3分の所にボストン交響楽団の本拠地シンフォニーホールがある。アルバイトでボストン響の定期演奏会のドア係をやっていたら、まだ若干33歳だった小澤征爾が初めて指揮をしに来た。皆でかわりばんこに演奏を聴いていたので、日本人だからおまえ行けといわれ、見聴きしたその演奏は、本当に度肝を抜かれるような凄まじさだった。ステージドアから現れた彼は、指揮台に着くまでの、左右にいる楽員一人一人と握手をしながら歩き、指揮台になかなか上がろうとしない。まるでこの歴史と伝統ある場所への畏敬の念を表しているかのようだった。そして、最後にようやっと飛びあがってから指揮をしたラヴェル「ダフニスとクローエ」の素晴らしかったこと!コンサートマスターのジョイ・シルヴェスタインが真っ赤な顔をして興奮していた。

終演後に後片付けをして帰った寮では、「大天才が現れた!」と大騒ぎになっていた。

以来29年もの長期にわたり小澤征爾がボストン響の音楽監督を務めることになるとは当時は想像もできなかった。そういえば、当時訪ねた彼の楽屋に、まだ若かった梶本事務所社長の梶本尚靖さんがいた。「僕はこのオケにずっといます」とセイジさんが言っていたのを鮮明に覚えている。

 

Junior(3年生)になった夏に僕が参加したタングルウッド音楽祭では、小澤征爾は総監督に就任していた。僕が取った Fellowship Program は8週間の受講料と衣食住が無料になるという破格の待遇。ボストン響を始めすべての音楽祭での演目も全部無料で聴ける。レナード・バーンスタインの指揮のマスタークラスも受講した。父と親しかったバーンスタインは、僕を「ワタナービ」と大声で呼んでくれた。そのマスタークラスでブルックナーの交響曲をスコアから初見で弾かされ、ちっとも上手く弾けなかった僕を、どけ!と言われて彼が代わりに弾いた。感動的だった。その同じ曲をバーンスタインが音楽祭オーケストラを相手に指揮した。その学生の演奏会に音楽監督の小澤征爾がスコア持参で聴きに来ていた。

Windser Mountain School という所が我々 Fellowship Students の寮で、そこからバークシャーの広大な森をバスで教室まで行くのだが、割と不便なためヒッチハイクをよくした。あるときピカピカの黒塗の車が僕を拾ってくれた。すごい老齢の婦人の運転で、まっすぐ走れずに車が右左と蛇行する。ちょっと怖かった。そしたら、最後の修了式で僕が賞をもらうことになり、ステージに行ったらそのお婆ちゃんが賞を手渡してくれた!タングルウッド音楽祭の創始者でボストン響の超有名音楽監督だったクーセヴィツキーの未亡人だった!

 

ニューイングランド音楽院には当初藝高時代から在籍していた作曲科に入った。おまえはピアノが上手だからと、本来は副科扱いのはずのピアノを、その年に就任したばかりの主任教授の Russell Sherman 先生が教えてくださった。こんなに見事に上手に弾ける人が教えてくれるんだと本当にびっくり!そのリサイタルの演奏は、今でも耳にこびり付いている。その Freshman(1年生)の年の終わりに Sherman 先生からピアノ科に移籍しないかと言われたが、その時は作曲に残りますとお答えした。そしたら Sophomore(2年生)になった最初の日に、もう君は教えてあげられないから、次のピアノの先生を決めるためのオーディションを明日受けるようにと言われた。まさに青天のへきれき!。で、明くる日にラフマニノフの絵画的練習曲Op.39の第5番を弾きたくて持っていったら、もっと別の一緒にやった曲はないのか?と Sherman 先生に言われたが、これを弾きたいと申し上げて弾かせてもらった。そこで、その年度から教授陣に加わった Theodore Lettvin 先生が僕を気に入ってくださって門下となった次第。

かくして、僕の父親の影響がまったくない状況下でまったく偶然に巡り合ったこの先生が、今の自分にとっての本当の大恩人となった。

続きは次回に!

2018.2.28 藝高の同窓会

一昨日、藝高同窓会の幹部会議をやった。

楽しかった高校時代を思い出し、参加するようになった同窓会とは、もう三十数年も付き合っている。日本一小さな国立の高校(全校生徒120名)。しかも女が男の倍以上もいる。あの年齢でプロの音楽家になることを決めて入学してくる逸材の集まりだから、はたから見たら異常な世界だろう。

僕は藝大には行かなかったので、藝高には特別な想いがある。そのため活動に参加をしていたら、当時の同窓会会長をしていらした藝大教授の佐藤眞先生が、藝高の校長に就任されることになった。藝高の第一期生である先生が校長へのご就任で、同窓会メンバーとしては非常に嬉しかったが、同時に藝高の表の顔である「校長」と、裏の顔である「同窓会会長」は同時に務められないとのご自身の強いご意向から、次の会長を決める理事会が招集され、そこで何故か僕が会長に選ばれた。

以来16年。大事な仕事は「周年行事」の立案から実行、それと5年ごとの名簿作りである。

その名簿に会長挨拶の文を掲載するために、同窓生(現在は約2500名)全員の名前を見渡してみる。実にそうそうたるメンバー。日本中の音楽大学の要職、N響を始めとする世界中の一流オケのメンバー、紫綬褒章など受章者多数のソリストたち等々、まさしく世界の音楽屋台の骨格をなす卒業生たちで誠に壮観である。僕の第11期生の同級生では、フランクフルト音大教授を含めドイツのプロオケの楽員数名、在京オケ首席奏者、音大教授などがいる。この伝統を守り、象徴的な存在として益々の発展に繋げる使命が同窓会にあると、皆で一昨日確認しあったところ。

藝高の正しい名称は「東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校」。なんと漢字18文字!

昨年だったか、ふと藝高の学内演奏会に立ち寄ってみたら、昔に桐朋で教えた子が僕を見つけて挨拶に飛んできた。なんと、その子の娘さんがピアノ科の1年生に入学していた。すごく嬉しかった次第である。

2018.2.24 ブログを再開しようと思う。

作陽を退職したのが2015年3月末。すでにほぼ3年が過ぎようとしている。その間に3回ほど東京でリサイタルを開催した。自分の出来ること、というよりは、自分にしか出来ない事にこだわった内容にした。作曲科に在籍中の米国留学2年目に書いた自作も弾いた。武士道ならぬ「ピアノ道」を自分なりに探求したかったから。10年ほど前までは自作はアンプできないと思い込んでいた。しかし、東京で初めて弾くことにしたので、頑張ったら、なんとアンプできた!根本的な自作に対する気持ちが変化したのだと思う。

ムソルグスキーの「展覧会の絵」を何十年ぶりかで再度勉強していた時に、ラヴェルがオーケストラに編曲する時に直筆の楽譜を取り寄せる苦労をしたと初めて知った。印刷されて出版された楽譜というものが何かを、今回改めて深く考えさせられた次第。他人が音符一つ一つを幾らという値段で仕事として譜面を書く。所詮は売るために印刷するのだから、当時から作曲家との間でいろいろあっただろう。ムソルグスキーの本当の作曲時の思いをラヴェルは知りたかったのだ。自作に久しぶりに相対してみて、実にその感覚がよくわかった。

 

 

 

2017年11月18日(土)浜離宮ホールでリサイタルほか

謹啓
皆様お変わりなくお元気でお過ごしのこととお慶び申し上げます。
私は
退職以来毎年秋に行っておりますリサイタル3年目に当たり、自分のDNAの本性を探るべく北欧に焦点を絞ることといたし、今回は浜離宮朝日ホールにおいて11月18日(土)の午後に「北欧プログラム」によるリサイタルを開催いたします。
今年がデンマークと日本との友好条約締結150周年というお祝いの年に当たりますので、その記念に同国の誇る作曲家ニールセンの作品を演奏いたします。また、自分の「ピアノの為の変奏曲」を再演し、私の父方の祖母の国、フィンランドのシベリウス、そしてノルウェイのグリ-グの作品を演奏いたします。
生粋のブロンドであった私の祖母、渡邉シーリが生まれた1890年(明治23年)は、シベリウスとニールセンが25歳、グリーグが47歳でした。ヘルシンキの国立音楽学校(現シベリウスアカデミー)に優秀な成績で在学していた18歳の時(1908年)に、キリスト教の勉強で留学していた2才年上の忠雄と結婚し、シベリウス、グリーグ等の楽譜を多く持参して長野県長池村(現在の岡谷市長地)の本家に嫁いできました。
その天性の美声で若い曉雄に祖国の歌を多く聴かせていたこと、当時のラジオJOAKに出演して歌ったこと、また多くの生徒さんを目黒区洗足の自宅で教えていたこと等々、父から話をたくさん聞いた次第です。
音楽家3代目の私の音楽的ルーツを探るこのリサイタルにご友人、ご家族の皆様方など、是非とも多数をお誘いあわせの上でのご来場を頂戴いたしたく、ここにチラシを添えてご案内申し上げます。

謹白

今年は12月8日(金)、9日(土)のサントリーホールにおける日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に出演します。短いながら超難曲の八村義夫作曲「錯乱の論理」です。

私の父方の祖先の出身地、長野県諏訪群長地村、現在の下諏訪の隣、で第19回目となる「北欧音楽祭すわ」が行われており、そこで今年初めて10月8日(日)にリサイタルを行います。

 

 

1983年のNHK-FM「午後のリサイタル」(当時34歳)

ユーチューブにこの音源があったので掲載します。

当時、ブラームスの作品ばかりでリサイタルを続けており、これが第4夜の曲目に入っていました。

 

ブラームス:自作の主題による変奏曲 Op.21-1

ブラームス:ハンガリアン・ダンス No.1, No.7, No.4