瀬戸大橋が開通した1987年に第1回津山国際総合音楽祭が開催された。父、渡邉曉雄が、その晩年の大仕事として命をかけて創始した音楽祭だ。あらゆる市民を巻き込むのが夢であった父は「総合」の文字を入れるのにこだわった。歌謡曲から「お母さんいらっしゃい」まで、音楽であらゆる層の人たちに感動を!がスローガンであった。当時の作陽音大の理事長は、なぜ「作陽音楽祭」ではいけないか、東京の自宅まで問い詰めに来た。地方の私大の名前を冠にしたら、音楽世界は注目しないと、理路整然と説いて話したと、後程知らされた。作陽音楽大学が縁の下の力持ちになってこそ、作陽の名が全日本に轟くという父の見識が、いかに正しかったか・・。
その初回の「津山国際総合音楽祭」の総合プログラムの内表紙
以下2ページが全プログラム。
その時の音楽副監督を勤めていた船山隆藝大教授が、僕を助監督に引き込む提案をした。父の本気度アップにつながる、渡邉家総動員で当たる体制づくりだ。僕の履歴書を「預からせてください」と言った船山が、作陽音大の根回しを行い、特任助教授という形で年に数回来て教えることになったのが、その第1回音楽祭の次年だった。
第2回の津山国際総合音楽祭の開催に向けて、各種の会議が行われ、そこに自分が全部出席させられた。
いかにプログラムビルディングを行うか、その激論、下調べから、契約に持っていく作業を、目の当りにさせられた。
テーマ作曲家を据え置き、それが第1回からマーラーに決められていた。
地元からは、「マーラーだかラーマだかしらんが、そんなの無理だ」との強い反対意見が第2回に対しても続出していた。
意に介さない父は、マーラーの孫娘を招聘し、国際マーラー協会の重鎮を招聘し、N響の演奏会のゲネプロで楽員に全員を紹介する。驚いたN響団員諸氏は、これはただの普通の音楽祭ではないことを自覚し、東京でも行わないような熱演を展開した。
実に見事な采配であった。
創意と知恵と工夫が、父と船山にあった。
この非常に面白い企画に、作陽は燃え上がり、教職員は音楽に携わって本当によかったと自覚した。
その中に入れていただき、自分は実に痛快であった。
なにしろ、父は津山にアパートを借り、津山用に車まで購入していたのだ。大変な熱の入れようであった。
第2回津山国際総合音楽祭の開催年、1990年の6月22日に父が亡くなった。奇しくもその日は父が創めた日本フィルハーモニー交響楽団の創立記念日であった。
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