Archive for the 未分類 Category

2016年11月12日(土)東京リサイタル

今夏の新居浜リサイタルのチラシです

渡邉康雄 新居浜リサイタル2016

今夏のリサイタルです

IMG_20160527_0003渡邉康雄 新居浜リサイタル2016

15年ぶりの東京リサイタル無事終了

001 002 003 004 005

 

お陰様で満席になりました。皆様、ご来聴を本当にありがとうございました。

 

IMGP2607 IMGP2610

音楽現代11月号に記事が出ました

音楽現代の11月号に記事が出ました。

音楽現代2015 11月号(1)音楽現代2015 11月号(2)

クラシックニュースで動画が見れます

津山国際総合音楽祭

瀬戸大橋が開通した1987年に第1回津山国際総合音楽祭が開催された。父、渡邉曉雄が、その晩年の大仕事として命をかけて創始した音楽祭だ。あらゆる市民を巻き込むのが夢であった父は「総合」の文字を入れるのにこだわった。歌謡曲から「お母さんいらっしゃい」まで、音楽であらゆる層の人たちに感動を!がスローガンであった。当時の作陽音大の理事長は、なぜ「作陽音楽祭」ではいけないか、東京の自宅まで問い詰めに来た。地方の私大の名前を冠にしたら、音楽世界は注目しないと、理路整然と説いて話したと、後程知らされた。作陽音楽大学が縁の下の力持ちになってこそ、作陽の名が全日本に轟くという父の見識が、いかに正しかったか・・。

その初回の「津山国際総合音楽祭」の総合プログラムの内表紙

第1回津山音楽祭内表紙

以下2ページが全プログラム。

第1回津山音楽祭(1)

第1回津山音楽祭(2)

その時の音楽副監督を勤めていた船山隆藝大教授が、僕を助監督に引き込む提案をした。父の本気度アップにつながる、渡邉家総動員で当たる体制づくりだ。僕の履歴書を「預からせてください」と言った船山が、作陽音大の根回しを行い、特任助教授という形で年に数回来て教えることになったのが、その第1回音楽祭の次年だった。

第2回の津山国際総合音楽祭の開催に向けて、各種の会議が行われ、そこに自分が全部出席させられた。
いかにプログラムビルディングを行うか、その激論、下調べから、契約に持っていく作業を、目の当りにさせられた。
テーマ作曲家を据え置き、それが第1回からマーラーに決められていた。

地元からは、「マーラーだかラーマだかしらんが、そんなの無理だ」との強い反対意見が第2回に対しても続出していた。
意に介さない父は、マーラーの孫娘を招聘し、国際マーラー協会の重鎮を招聘し、N響の演奏会のゲネプロで楽員に全員を紹介する。驚いたN響団員諸氏は、これはただの普通の音楽祭ではないことを自覚し、東京でも行わないような熱演を展開した。
実に見事な采配であった。
創意と知恵と工夫が、父と船山にあった。

この非常に面白い企画に、作陽は燃え上がり、教職員は音楽に携わって本当によかったと自覚した。
その中に入れていただき、自分は実に痛快であった。

なにしろ、父は津山にアパートを借り、津山用に車まで購入していたのだ。大変な熱の入れようであった。

第2回津山国際総合音楽祭の開催年、1990年の6月22日に父が亡くなった。奇しくもその日は父が創めた日本フィルハーモニー交響楽団の創立記念日であった。

作陽での最後の卒業式

作陽での私の出席する最後の卒業式の写真が送られてきましたので、掲載しました。2015年3月17日。

image2

岡本周子さん、加藤彩歌さん、三輪千春さんと。食堂での祝賀会。
岡本周子、加藤彩歌、三輪千春

三輪千春

卒業式の晩のピアノ科卒業生による謝恩会後。Vivoの前で。中田博人くんと加藤彩歌さん。
中田博人、加藤彩歌

日本人の作品と、松村禎三「巡礼」

2日続けて日本人の作品を聴いた。

松村禎三、三木稔、そして高橋裕。松村は没後8年、三木は没後4年、そして高橋は昨年還暦を迎え、芸高教諭の籍を今年度で卒業である。

明らかに輸入物の西洋かぶれ的な音創りから脱却し、東洋、もっと言えば日本独特の魂を持った音楽が生まれている。

松村と三木は二人とも東京都狛江市在住であった。私の妻が長年住んだ町で、我々も新婚時代に過ごした地だ。そんな歴史から狛江独自の音楽みたいな物を感じた。和音、旋律、それらが狛江の土地の独特な雰囲気とか薫りを醸し出していた。

僕が、その成立に大きな役割を果たした松村禎三晩年の大作、ピアノのための「巡礼」という作品の偉大さを、涙ながらに力説していた松村の側近に、終演後の打ち上げで会った。 いわく、「あの作品は渡邉さんに会わなければ成立しなかった」とのこと。

そう言えば、松村の声楽曲「貧しき信徒」を聴いた時に、あまりの大きな感動に、松村にピアノパートだけでもリサイタルで弾かせてくれと哀願してた自分がいた。松村には、若い頃に書いた「ギリシャによせる2つの子守唄」しかピアノ独奏の作品がなかったのだ。 ある夏の日に、突然松村からお電話をいただき、君が僕に書け頼んでいたピアノの作品だけど、もしかしたら書けそうなんだけど、という。 音楽が閃いたといい、出だしを書いたとおっしゃったので、是非聴かせてくださいと臆面もなく申し上げ、妻と二人で、その電話を切ったその足でお宅に大急ぎで伺った。

先生の独特な、左肩が少し上がり、祈るような神々しい雰囲気で、最初のフレーズを弾いてくださった。

その素晴らしい魅力溢れる音楽に、直感で、これは名曲が生まれると確信した。 あの日は自分にとって非常に大切な日になった。 そのあと、お孫ちゃまの手を引いて皆で多摩川の花火を見に行った。 自分は49歳であった。