「皇帝」に思うこと
ベートーヴェンが「皇帝」を作曲した1808~9年は、彼は38~9才でウィーン在住であった。まさにその年、1809年4月9日にオーストリアがフランスに宣戦布告を行う。そして同年7月5~6日に「ヴァグラムの戦い」が勃発する。ベートーヴェンの住むウィーンの北東15kmのドナウ川北岸の町ヴァグラム(Wagram)周辺で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍と、カール大公率いるオーストリア軍が壮絶な戦いを繰り広げたのだ。フランス側32000名、オーストリア側4万名の、併せて7万人以上が死傷するという凄絶なものであった。 次の多数の絵画を是非ご参照あれ。(以下URLをドラッグして右クリック) https://www.alamy.com/stock-photo/battle-of-wagram.html 双方が運び込んだ野砲は1000門近くというから、その間近にいたベートーヴェンは何を思ったのだろう。 「皇帝」と同じ変ホ長調で、当初「ボナパルト交響曲」と命名された交響曲第3番は、ナポレオンが皇帝に就任したため作曲者が楽譜表紙の名称部分を破り、「ある英雄のために」と書き改めた。そのショッキングな直筆のページが以下である。 https://en.wikipedia.org/wiki/Symphony_No._3_(Beethoven)#/media/File:Eroica_Beethoven_title.jpg 戦火を逃れるため同年の1809年5月4日にウィーンを離れたルドルフ大公の為に「尊敬するルドルフ大公殿下のご出発にあたって」と書き込まれた「告別」と呼ばれるピアノソナタ第26番 Op.86aも、同じ変ホ長調だ。 僕の父は第2次世界大戦中は看護兵として従軍したというから、現実に戦争を体験し、死体とも向き合っただろう。我々現代社会に生きる今の日本人に戦争体験はない。しかし父たちの年代はそれを体験し、それを一切語らずに世を去った。東京文京区にある母の実家の屋根は東京大空襲で吹き飛ばされたという。ベートーヴェンの時代とて、生きる人々が感じる辛さ、悲しさ、等々の気持ちは同じであろう。パリのルーヴル美術館に展示されているおびただしい量の戦争絵画を例に出すまでもなく、音楽家ベートーヴェンは、それらの画家たちと同じような気持ちを自分の作品にぶつけ、世界に訴えかけたと考えるのは自然だろう。 先日「マリー・アントワネット」(ソフィア・コッポラ監督2006年アメリカ)なる映画を見た。オーストリアから嫁入りしヴェルサイユ宮殿で贅沢三昧の日々を過ごす。しかし怒れるパリ市民の暴動に夜逃げし、その後に37才の若さでパリ革命広場で斬首刑に処せられる。ヴェルサイユ宮殿で「この扉からマリーアントワネットが逃げた」と、その贅沢な寝室で説明を受けたことがある。その処刑は「皇帝」が作曲される僅か16年前の出来事だ。 我々が使用するオーケストラ用総譜(Breitkopf & Hartel, Wiesbaden,皇帝の初版出版社)と勉強用の2台ピアノ用の楽譜(Edition Peters 版)には「Beethoven Klavier=Konzert Op.73」がタイトルとなっているが「皇帝」の文字はない。音楽大事典等の書物には(「皇帝」)とカッコ付きで書かれている。英文では(emperor)の表記。「運命」、「月光」などと同じくベートーヴェン自身による名称ではないのだ。 当時の激しい戦乱の世にて、あまりにも力強い曲想であったため、誰彼となく「皇帝」と呼ぶ様になったとの学説である。 「田園」交響曲にてカッコウの鳴き声、雷、小川の流れなどを模倣するベートーヴェンが、「皇帝」にて当時の世に轟く大砲の音や進軍ラッパの音型を模倣したと考えて不自然はまったくない。 冒頭出だしのピアノの壮大な独奏から、すべてのフレーズが上行する。上向きフレーズの書法に多くの創意工夫が見られるのがこの作品最大の特徴。第3楽章テーマもまったく同じ。登って登ってsF(スフォルツァンド)に行き着き、さらに高い音まで登る。その左手の伴奏音型も他に類を一切見ない激しい跳躍。こんなに厳しく力強いフレーズは「皇帝」にしか無い。 ピアノの、特に高音の変ホ音の弦を切らない様に気をつけながら、この壮大な音楽宇宙を演じきりたいと切望する。今度(2019.3.17)が1976年11月30日に三石精一氏指揮の読売日本交響楽団と共演して以来25回目の「皇帝」になる。弾き振りでは8回目。 ちなみに、戦争の悲惨さを描いた僕の大好きな作曲家にショスタコーヴィチがいる。「ロシア大地に浸み込んだおびただしい血が香る」と言われる作風。スターリンの圧政に苦しむ庶民の怒りを表現する。ベートーヴェンも、多分同じような心境だったに違いないと改めて思っている次第。でなければ厳しい時代を生き抜いたベートーヴェンが15年後に「An die Freude」(歓喜に寄す)と書かれた第九交響曲を作曲しないだろう。 以下、直筆の第九交響曲の表紙。 邦訳:「シラー作、頌歌「歓喜に寄す」を終末合唱にした大管弦楽、四声の独唱、四声の合唱の為に作曲され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世陛下に最も深甚の畏敬をもって、ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって献呈された交響曲、作品125.」
総括として、格調の高い風格が、その演奏に求められる。我々がルーヴル美術館を訪れる時に感ずる、あの一種形容しがたい畏敬の念と同じだ。一つの人類史上まれに見る貴重な精神芸術の伝導行為である所以だ。ピアノ音楽開拓者の神聖なるベートーヴェンなのである。
70才の記念に「皇帝」などの弾き振り演奏会を開催します
来年、2019年1月24日で満70才になるので、記念にオーケストラ・アンサンブル金沢を東京に招聘して弾き振りをします。2019年3月17日(日)午後2時開演。紀尾井ホール。 ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と「皇帝」の2曲。 ピアノの上蓋を取り外して、背中を客席に向けて演奏します。 その形で演奏するのに音響が最高のホールです。 2000席クラスのホールだとピアノが良い音がしませんが、紀尾井ホールだと最高に良い音質です。 是非多数のご来聴をお待ちします。 入場券のご依頼は 03-3501-5638 ミリオンコンサート協会まで。
セオドア・レトヴィン先生
僕が19歳だった1968年9月の新学期から、当時42歳だったセオドア・レトヴィン 先生についた。当時のレトヴィン先生は年間80回前後の演奏活動をしていた現役バリバリのコンサートピアニスト。そのレッスンは12人の生徒を週1回教えるというもの。朝7時から始め、休み無しで夜7時まで。そしてその30分後の7時半から夜中12時までマスタークラス。そこでその日のレッスンで弾いた曲を皆の前で弾かされる。レッスン室にはコーヒーメーカーの他にトマト、キュウリ、ニンジン、チーズ、パンなどがあり、ご自分で召し上がる他に、力み過ぎている学生に、弾いている最中に口に押し込む。これが実におかしかった。4拍子の曲を「3拍子に勘定しろ」だの、キュウリ食べながら弾かされたり、挙句の果ては、リズムの悪い生徒に対し、ピアノの蓋の上にあがって先生自身が飛び回って踊りだす。体重100キロ超の、まるで肉屋のオヤジ風の先生が乗ってもピアノの蓋は割れないと初めて知った。牛一頭を背負って船からの積み下ろし作業をしたという先生の学生時代のアルバイトの話は、誠に真実味を帯びていた。本当にダイナミックな先生だった。
そのレトヴィン先生が2か月のヨーロッパ演奏旅行に出ることになった。約10曲の協奏曲を弾くツアーだとのこと。マスタークラスの最中に「誰かリハーサルで伴奏したい人いますか?」と聞かれた。「是非やらせて欲しい」と僕が挙手。それ以来、彼のご自宅にしょっちゅう行っては伴奏をするようになった。夜8時ころからリハーサル。チャイコフスキー、皇帝、モーツァルト20番、24番、リスト「死の舞踏」、R.シュトラウス「ブルレスケ」、ラフマニノフ2番、パガニーニ狂詩曲、サンサーンス2番、ブラームス2番などなど。これら10曲を一晩で練習。終わると夜中3時。みんなで寝ようと、僕は長男ローリィちゃんの室のベッドに。次の朝7時には「bright and ugly!」と先生に起こされる!日本語訳「不愉快な朝だぞ!」(笑)。
ずいぶん何回もリハーサルに行った。そこで本当のプロの練習というものを知る。「なんでここが弾けない」と怒り、「いや、こうすると弾ける」等々、苦労をさらけ出していた。ピアニッシモを上手に弾くには「象の足を連想する」と言い出す。あの体重なのに足音は聞こえない。あれがピアニッシモを弾く神髄とのこと。先生の指の爪の根本から出血したこともあった。ブラームスPコン2番だった。弾けなくて、とてつもなく大きな音で弾きだし、ピアノが本当に壊れそうだった。あの大きな人がゴリラのように弾く。プロの凄まじさに圧倒された。
サンサーンス2番をボストン交響楽団の定期演奏会で当時の音楽監督のスタインバーグ(William Steinberg)指揮で弾いた時のこと。その恒例のシンフォニーホールでのオープンリハーサルで、耳打ちするようにスタインバーグが「な~んてつまらねぇこと弾きやがるんだ」と先生に言う。そしてほとんど倍ちかいモーレツなテンポでやりだした。レトヴィン先生はついて行けずに音をはずしまくり。そのリハーサル後に「Yasuo, come with me!」と彼の家に引っ張り込まれ、その晩の深夜2時くらいまでかかって全曲を倍の速さで弾けるように猛烈な特訓。翌日からの4日続きの本番は大成功だった!
隣のロードアイランド州の首都プロヴィデンスのアマチュアオケがショパンのPコン1番の練習ピアニスト探してるらしいけど、ヤスオ弾いてみるか?と先生に言われた。その日から3週間後。もちろん弾いたことなかったけど「やります」と答えて2週間たったころに、今度はカーネギーホールでR.シュトラウスのピアノ協奏曲「ブルレスケ」を1か月後に弾けるピアニストを探してると校長経由でのニュースを察知。すぐさまレトヴィン先生に電話して「譜面だけでも見せてください」と頼みこんで彼の家に直行。彼は僕にショパンをやらせてたから、他の人を考えていた。「絶対オレが!」と猛烈に意気込んで、楽譜だけでもの痛烈な思いが通じ、結局僕がやることになった。その電話の8日後が最初のオケ合わせ。もちろん全部カンペキにアンプして行った。まだ覚えている。1971年11月11日にレトヴィン先生宅にブルレスケの楽譜を拝借に行き、11月19日がブルレスケ初オケ合わせ。その4日後にショパン1番をオケと弾き、憧れの殿堂カーネギーホールのステージには12月11日に。この演奏会は幸運にも母が来ていて聴いてくれた。レトヴィン先生ご夫妻、それに親友たち3人もボストンから来てくれた。本当に思いで深い演奏会となった。トランジスタラジオのスピーカー前に置いたマイクで録音したカセットテープがあり、今でもたまに聴く。アナウンサーがうまく名前を発音できず、「ヤスエ~・ワンタナーベー」となっている。
当時22歳。オケはニューヨークユースシンフォニーオーケストラで、指揮者はアゼイヤ・ジャクソンだった。
2018.3.20 ボストンでの留学生活
ピアノを教えるということは、学生一人一人の身になって何が本当に必要かを見極めて指導して行くことが最重要だと思うので、在職時は自分の大学時代のことはあまり話さずにいた。今改めて自分が在籍した11年に及ぶ音楽学校時代のことを思い返し、今回はボストンのニューイングランド音楽院時代のことを書く。 満18歳だった高卒後の1967年9月に生まれて初めて飛行機というものに乗り、最初にホノルルの知人宅に行き、数日を過ごしてからボストンに行った。エコノミークラスが満席でファーストクラスに座らせられ、スチュワーデスに親切にしてもらい、機内の窓から下を見た光景などは昨日のことのように鮮明に脳裏に残る。到着したボストンは、暑かった東京からは想像できないような初秋で、人々はコートを羽織っていた。その10月に隣のニューハンプシャー州に連れて行ってもらった紅葉狩りは、この世の物とは思えぬ程に本当に美しかった。 新興国家アメリカ最古の文化都市。1773年の茶会事件で有名なボストン。バーンスタインの出身校ハーヴァード、ヘレン・ケラーの出身校ラドクリフ、マサチューセッツ工科大学,ボストン大学、ジャズのバークリー音楽大学等のあるアメリカの最高学府。僕の恩師の家はケネディの生家のすぐそばだった。野茂英雄、上原浩治のボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイパークのすぐ傍のビルに住んでいたこともある。主にイギリスからの移民が開拓した地なためニューイングランド地方という。ニューロンドンなんて地名まであった。 学校から徒歩3分の所にボストン交響楽団の本拠地シンフォニーホールがある。アルバイトでボストン響の定期演奏会のドア係をやっていたら、まだ若干33歳だった小澤征爾が初めて指揮をしに来た。皆でかわりばんこに演奏を聴いていたので、日本人だからおまえ行けといわれ、見聴きしたその演奏は、本当に度肝を抜かれるような凄まじさだった。ステージドアから現れた彼は、指揮台に着くまでの、左右にいる楽員一人一人と握手をしながら歩き、指揮台になかなか上がろうとしない。まるでこの歴史と伝統ある場所への畏敬の念を表しているかのようだった。そして、最後にようやっと飛びあがってから指揮をしたラヴェル「ダフニスとクローエ」の素晴らしかったこと!コンサートマスターのジョイ・シルヴェスタインが真っ赤な顔をして興奮していた。 終演後に後片付けをして帰った寮では、「大天才が現れた!」と大騒ぎになっていた。 以来29年もの長期にわたり小澤征爾がボストン響の音楽監督を務めることになるとは当時は想像もできなかった。そういえば、当時訪ねた彼の楽屋に、まだ若かった梶本事務所社長の梶本尚靖さんがいた。「僕はこのオケにずっといます」とセイジさんが言っていたのを鮮明に覚えている。
Junior(3年生)になった夏に僕が参加したタングルウッド音楽祭では、小澤征爾は総監督に就任していた。僕が取った Fellowship Program は8週間の受講料と衣食住が無料になるという破格の待遇。ボストン響を始めすべての音楽祭での演目も全部無料で聴ける。レナード・バーンスタインの指揮のマスタークラスも受講した。父と親しかったバーンスタインは、僕を「ワタナービ」と大声で呼んでくれた。そのマスタークラスでブルックナーの交響曲をスコアから初見で弾かされ、ちっとも上手く弾けなかった僕を、どけ!と言われて彼が代わりに弾いた。感動的だった。その同じ曲をバーンスタインが音楽祭オーケストラを相手に指揮した。その学生の演奏会に音楽監督の小澤征爾がスコア持参で聴きに来ていた。 Windser Mountain School という所が我々 Fellowship Students の寮で、そこからバークシャーの広大な森をバスで教室まで行くのだが、割と不便なためヒッチハイクをよくした。あるときピカピカの黒塗の車が僕を拾ってくれた。すごい老齢の婦人の運転で、まっすぐ走れずに車が右左と蛇行する。ちょっと怖かった。そしたら、最後の修了式で僕が賞をもらうことになり、ステージに行ったらそのお婆ちゃんが賞を手渡してくれた!タングルウッド音楽祭の創始者でボストン響の超有名音楽監督だったクーセヴィツキーの未亡人だった!
ニューイングランド音楽院には当初藝高時代から在籍していた作曲科に入った。おまえはピアノが上手だからと、本来は副科扱いのはずのピアノを、その年に就任したばかりの主任教授の Russell Sherman 先生が教えてくださった。こんなに見事に上手に弾ける人が教えてくれるんだと本当にびっくり!そのリサイタルの演奏は、今でも耳にこびり付いている。その Freshman(1年生)の年の終わりに Sherman 先生からピアノ科に移籍しないかと言われたが、その時は作曲に残りますとお答えした。そしたら Sophomore(2年生)になった最初の日に、もう君は教えてあげられないから、次のピアノの先生を決めるためのオーディションを明日受けるようにと言われた。まさに青天のへきれき!。で、明くる日にラフマニノフの絵画的練習曲Op.39の第5番を弾きたくて持っていったら、もっと別の一緒にやった曲はないのか?と Sherman 先生に言われたが、これを弾きたいと申し上げて弾かせてもらった。そこで、その年度から教授陣に加わった Theodore Lettvin 先生が僕を気に入ってくださって門下となった次第。 かくして、僕の父親の影響がまったくない状況下でまったく偶然に巡り合ったこの先生が、今の自分にとっての本当の大恩人となった。 続きは次回に! |