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音楽現代3月号 P.2
毎日新聞WEB版

以下をクリックすると読めます。

https://mainichi.jp/classic/articles/20190227/org/00m/200/001000d

ぶらあぼ 3月号
「音楽の友」3月号
読売新聞に記事が掲載されました
モーストリー・クラシックに記事が掲載されました
「皇帝」に思うこと

ベートーヴェンが「皇帝」を作曲した1808~9年は、彼は38~9才でウィーン在住であった。まさにその年、1809年4月9日にオーストリアがフランスに宣戦布告を行う。そして同年7月5~6日に「ヴァグラムの戦い」が勃発する。ベートーヴェンの住むウィーンの北東15kmのドナウ川北岸の町ヴァグラム(Wagram)周辺で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍と、カール大公率いるオーストリア軍が壮絶な戦いを繰り広げたのだ。フランス側32000名、オーストリア側4万名の、併せて7万人以上が死傷するという凄絶なものであった。

次の多数の絵画を是非ご参照あれ。(以下URLをドラッグして右クリック)

https://www.alamy.com/stock-photo/battle-of-wagram.html

双方が運び込んだ野砲は1000門近くというから、その間近にいたベートーヴェンは何を思ったのだろう。

「皇帝」と同じ変ホ長調で、当初「ボナパルト交響曲」と命名された交響曲第3番は、ナポレオンが皇帝に就任したため作曲者が楽譜表紙の名称部分を破り、「ある英雄のために」と書き改めた。そのショッキングな直筆のページが以下である。

https://en.wikipedia.org/wiki/Symphony_No._3_(Beethoven)#/media/File:Eroica_Beethoven_title.jpg

戦火を逃れるため同年の1809年5月4日にウィーンを離れたルドルフ大公の為に「尊敬するルドルフ大公殿下のご出発にあたって」と書き込まれた「告別」と呼ばれるピアノソナタ第26番 Op.86aも、同じ変ホ長調だ。

僕の父は第2次世界大戦中は看護兵として従軍したというから、現実に戦争を体験し、死体とも向き合っただろう。我々現代社会に生きる今の日本人に戦争体験はない。しかし父たちの年代はそれを体験し、それを一切語らずに世を去った。東京文京区にある母の実家の屋根は東京大空襲で吹き飛ばされたという。ベートーヴェンの時代とて、生きる人々が感じる辛さ、悲しさ、等々の気持ちは同じであろう。パリのルーヴル美術館に展示されているおびただしい量の戦争絵画を例に出すまでもなく、音楽家ベートーヴェンは、それらの画家たちと同じような気持ちを自分の作品にぶつけ、世界に訴えかけたと考えるのは自然だろう。

先日「マリー・アントワネット」(ソフィア・コッポラ監督2006年アメリカ)なる映画を見た。オーストリアから嫁入りしヴェルサイユ宮殿で贅沢三昧の日々を過ごす。しかし怒れるパリ市民の暴動に夜逃げし、その後に37才の若さでパリ革命広場で斬首刑に処せられる。ヴェルサイユ宮殿で「この扉からマリーアントワネットが逃げた」と、その贅沢な寝室で説明を受けたことがある。その処刑は「皇帝」が作曲される僅か16年前の出来事だ。

我々が使用するオーケストラ用総譜(Breitkopf & Hartel, Wiesbaden,皇帝の初版出版社)と勉強用の2台ピアノ用の楽譜(Edition Peters 版)には「Beethoven Klavier=Konzert Op.73」がタイトルとなっているが「皇帝」の文字はない。音楽大事典等の書物には(「皇帝」)とカッコ付きで書かれている。英文では(emperor)の表記。「運命」、「月光」などと同じくベートーヴェン自身による名称ではないのだ。

当時の激しい戦乱の世にて、あまりにも力強い曲想であったため、誰彼となく「皇帝」と呼ぶ様になったとの学説である。

「田園」交響曲にてカッコウの鳴き声、雷、小川の流れなどを模倣するベートーヴェンが、「皇帝」にて当時の世に轟く大砲の音や進軍ラッパの音型を模倣したと考えて不自然はまったくない。

冒頭出だしのピアノの壮大な独奏から、すべてのフレーズが上行する。上向きフレーズの書法に多くの創意工夫が見られるのがこの作品最大の特徴。第3楽章テーマもまったく同じ。登って登ってsF(スフォルツァンド)に行き着き、さらに高い音まで登る。その左手の伴奏音型も他に類を一切見ない激しい跳躍。こんなに厳しく力強いフレーズは「皇帝」にしか無い。

ピアノの、特に高音の変ホ音の弦を切らない様に気をつけながら、この壮大な音楽宇宙を演じきりたいと切望する。今度(2019.3.17)が1976年11月30日に三石精一氏指揮の読売日本交響楽団と共演して以来25回目の「皇帝」になる。弾き振りでは8回目。

ちなみに、戦争の悲惨さを描いた僕の大好きな作曲家にショスタコーヴィチがいる。「ロシア大地に浸み込んだおびただしい血が香る」と言われる作風。スターリンの圧政に苦しむ庶民の怒りを表現する。ベートーヴェンも、多分同じような心境だったに違いないと改めて思っている次第。でなければ厳しい時代を生き抜いたベートーヴェンが15年後に「An die Freude」(歓喜に寄す)と書かれた第九交響曲を作曲しないだろう。

以下、直筆の第九交響曲の表紙。

邦訳:「シラー作、頌歌「歓喜に寄す」を終末合唱にした大管弦楽、四声の独唱、四声の合唱の為に作曲され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世陛下に最も深甚の畏敬をもって、ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって献呈された交響曲、作品125.」

 

総括として、格調の高い風格が、その演奏に求められる。我々がルーヴル美術館を訪れる時に感ずる、あの一種形容しがたい畏敬の念と同じだ。一つの人類史上まれに見る貴重な精神芸術の伝導行為である所以だ。ピアノ音楽開拓者の神聖なるベートーヴェンなのである。

 

 

70才の記念に「皇帝」などの弾き振り演奏会を開催します

来年、2019年1月24日で満70才になるので、記念にオーケストラ・アンサンブル金沢を東京に招聘して弾き振りをします。2019年3月17日(日)午後2時開演。紀尾井ホール。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と「皇帝」の2曲。

ピアノの上蓋を取り外して、背中を客席に向けて演奏します。

その形で演奏するのに音響が最高のホールです。

2000席クラスのホールだとピアノが良い音がしませんが、紀尾井ホールだと最高に良い音質です。

是非多数のご来聴をお待ちします。

入場券のご依頼は 03-3501-5638 ミリオンコンサート協会まで。

長男の記事です

セオドア・レトヴィン先生

僕が19歳だった1968年9月の新学期から、当時42歳だったセオドア・レトヴィン 先生についた。当時のレトヴィン先生は年間80回前後の演奏活動をしていた現役バリバリのコンサートピアニスト。そのレッスンは12人の生徒を週1回教えるというもの。朝7時から始め、休み無しで夜7時まで。そしてその30分後の7時半から夜中12時までマスタークラス。そこでその日のレッスンで弾いた曲を皆の前で弾かされる。レッスン室にはコーヒーメーカーの他にトマト、キュウリ、ニンジン、チーズ、パンなどがあり、ご自分で召し上がる他に、力み過ぎている学生に、弾いている最中に口に押し込む。これが実におかしかった。4拍子の曲を「3拍子に勘定しろ」だの、キュウリ食べながら弾かされたり、挙句の果ては、リズムの悪い生徒に対し、ピアノの蓋の上にあがって先生自身が飛び回って踊りだす。体重100キロ超の、まるで肉屋のオヤジ風の先生が乗ってもピアノの蓋は割れないと初めて知った。牛一頭を背負って船からの積み下ろし作業をしたという先生の学生時代のアルバイトの話は、誠に真実味を帯びていた。本当にダイナミックな先生だった。

 

そのレトヴィン先生が2か月のヨーロッパ演奏旅行に出ることになった。約10曲の協奏曲を弾くツアーだとのこと。マスタークラスの最中に「誰かリハーサルで伴奏したい人いますか?」と聞かれた。「是非やらせて欲しい」と僕が挙手。それ以来、彼のご自宅にしょっちゅう行っては伴奏をするようになった。夜8時ころからリハーサル。チャイコフスキー、皇帝、モーツァルト20番、24番、リスト「死の舞踏」、R.シュトラウス「ブルレスケ」、ラフマニノフ2番、パガニーニ狂詩曲、サンサーンス2番、ブラームス2番などなど。これら10曲を一晩で練習。終わると夜中3時。みんなで寝ようと、僕は長男ローリィちゃんの室のベッドに。次の朝7時には「bright and ugly!」と先生に起こされる!日本語訳「不愉快な朝だぞ!」(笑)。

 

ずいぶん何回もリハーサルに行った。そこで本当のプロの練習というものを知る。「なんでここが弾けない」と怒り、「いや、こうすると弾ける」等々、苦労をさらけ出していた。ピアニッシモを上手に弾くには「象の足を連想する」と言い出す。あの体重なのに足音は聞こえない。あれがピアニッシモを弾く神髄とのこと。先生の指の爪の根本から出血したこともあった。ブラームスPコン2番だった。弾けなくて、とてつもなく大きな音で弾きだし、ピアノが本当に壊れそうだった。あの大きな人がゴリラのように弾く。プロの凄まじさに圧倒された。

 

サンサーンス2番をボストン交響楽団の定期演奏会で当時の音楽監督のスタインバーグ(William Steinberg)指揮で弾いた時のこと。その恒例のシンフォニーホールでのオープンリハーサルで、耳打ちするようにスタインバーグが「な~んてつまらねぇこと弾きやがるんだ」と先生に言う。そしてほとんど倍ちかいモーレツなテンポでやりだした。レトヴィン先生はついて行けずに音をはずしまくり。そのリハーサル後に「Yasuo, come with me!」と彼の家に引っ張り込まれ、その晩の深夜2時くらいまでかかって全曲を倍の速さで弾けるように猛烈な特訓。翌日からの4日続きの本番は大成功だった!

 

隣のロードアイランド州の首都プロヴィデンスのアマチュアオケがショパンのPコン1番の練習ピアニスト探してるらしいけど、ヤスオ弾いてみるか?と先生に言われた。その日から3週間後。もちろん弾いたことなかったけど「やります」と答えて2週間たったころに、今度はカーネギーホールでR.シュトラウスのピアノ協奏曲「ブルレスケ」を1か月後に弾けるピアニストを探してると校長経由でのニュースを察知。すぐさまレトヴィン先生に電話して「譜面だけでも見せてください」と頼みこんで彼の家に直行。彼は僕にショパンをやらせてたから、他の人を考えていた。「絶対オレが!」と猛烈に意気込んで、楽譜だけでもの痛烈な思いが通じ、結局僕がやることになった。その電話の8日後が最初のオケ合わせ。もちろん全部カンペキにアンプして行った。まだ覚えている。1971年11月11日にレトヴィン先生宅にブルレスケの楽譜を拝借に行き、11月19日がブルレスケ初オケ合わせ。その4日後にショパン1番をオケと弾き、憧れの殿堂カーネギーホールのステージには12月11日に。この演奏会は幸運にも母が来ていて聴いてくれた。レトヴィン先生ご夫妻、それに親友たち3人もボストンから来てくれた。本当に思いで深い演奏会となった。トランジスタラジオのスピーカー前に置いたマイクで録音したカセットテープがあり、今でもたまに聴く。アナウンサーがうまく名前を発音できず、「ヤスエ~・ワンタナーベー」となっている。

 

当時22歳。オケはニューヨークユースシンフォニーオーケストラで、指揮者はアゼイヤ・ジャクソンだった。