2018.3.20 ボストンでの留学生活

ピアノを教えるということは、学生一人一人の身になって何が本当に必要かを見極めて指導して行くことが最重要だと思うので、在職時は自分の大学時代のことはあまり話さずにいた。今改めて自分が在籍した11年に及ぶ音楽学校時代のことを思い返し、今回はボストンのニューイングランド音楽院時代のことを書く。

満18歳だった高卒後の1967年9月に生まれて初めて飛行機というものに乗り、最初にホノルルの知人宅に行き、数日を過ごしてからボストンに行った。エコノミークラスが満席でファーストクラスに座らせられ、スチュワーデスに親切にしてもらい、機内の窓から下を見た光景などは昨日のことのように鮮明に脳裏に残る。到着したボストンは、暑かった東京からは想像できないような初秋で、人々はコートを羽織っていた。その10月に隣のニューハンプシャー州に連れて行ってもらった紅葉狩りは、この世の物とは思えぬ程に本当に美しかった。

新興国家アメリカ最古の文化都市。1773年の茶会事件で有名なボストン。バーンスタインの出身校ハーヴァード、ヘレン・ケラーの出身校ラドクリフ、マサチューセッツ工科大学,ボストン大学、ジャズのバークリー音楽大学等のあるアメリカの最高学府。僕の恩師の家はケネディの生家のすぐそばだった。野茂英雄、上原浩治のボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイパークのすぐ傍のビルに住んでいたこともある。主にイギリスからの移民が開拓した地なためニューイングランド地方という。ニューロンドンなんて地名まであった。

学校から徒歩3分の所にボストン交響楽団の本拠地シンフォニーホールがある。アルバイトでボストン響の定期演奏会のドア係をやっていたら、まだ若干33歳だった小澤征爾が初めて指揮をしに来た。皆でかわりばんこに演奏を聴いていたので、日本人だからおまえ行けといわれ、見聴きしたその演奏は、本当に度肝を抜かれるような凄まじさだった。ステージドアから現れた彼は、指揮台に着くまでの、左右にいる楽員一人一人と握手をしながら歩き、指揮台になかなか上がろうとしない。まるでこの歴史と伝統ある場所への畏敬の念を表しているかのようだった。そして、最後にようやっと飛びあがってから指揮をしたラヴェル「ダフニスとクローエ」の素晴らしかったこと!コンサートマスターのジョイ・シルヴェスタインが真っ赤な顔をして興奮していた。

終演後に後片付けをして帰った寮では、「大天才が現れた!」と大騒ぎになっていた。

以来29年もの長期にわたり小澤征爾がボストン響の音楽監督を務めることになるとは当時は想像もできなかった。そういえば、当時訪ねた彼の楽屋に、まだ若かった梶本事務所社長の梶本尚靖さんがいた。「僕はこのオケにずっといます」とセイジさんが言っていたのを鮮明に覚えている。

 

Junior(3年生)になった夏に僕が参加したタングルウッド音楽祭では、小澤征爾は総監督に就任していた。僕が取った Fellowship Program は8週間の受講料と衣食住が無料になるという破格の待遇。ボストン響を始めすべての音楽祭での演目も全部無料で聴ける。レナード・バーンスタインの指揮のマスタークラスも受講した。父と親しかったバーンスタインは、僕を「ワタナービ」と大声で呼んでくれた。そのマスタークラスでブルックナーの交響曲をスコアから初見で弾かされ、ちっとも上手く弾けなかった僕を、どけ!と言われて彼が代わりに弾いた。感動的だった。その同じ曲をバーンスタインが音楽祭オーケストラを相手に指揮した。その学生の演奏会に音楽監督の小澤征爾がスコア持参で聴きに来ていた。

Windser Mountain School という所が我々 Fellowship Students の寮で、そこからバークシャーの広大な森をバスで教室まで行くのだが、割と不便なためヒッチハイクをよくした。あるときピカピカの黒塗の車が僕を拾ってくれた。すごい老齢の婦人の運転で、まっすぐ走れずに車が右左と蛇行する。ちょっと怖かった。そしたら、最後の修了式で僕が賞をもらうことになり、ステージに行ったらそのお婆ちゃんが賞を手渡してくれた!タングルウッド音楽祭の創始者でボストン響の超有名音楽監督だったクーセヴィツキーの未亡人だった!

 

ニューイングランド音楽院には当初藝高時代から在籍していた作曲科に入った。おまえはピアノが上手だからと、本来は副科扱いのはずのピアノを、その年に就任したばかりの主任教授の Russell Sherman 先生が教えてくださった。こんなに見事に上手に弾ける人が教えてくれるんだと本当にびっくり!そのリサイタルの演奏は、今でも耳にこびり付いている。その Freshman(1年生)の年の終わりに Sherman 先生からピアノ科に移籍しないかと言われたが、その時は作曲に残りますとお答えした。そしたら Sophomore(2年生)になった最初の日に、もう君は教えてあげられないから、次のピアノの先生を決めるためのオーディションを明日受けるようにと言われた。まさに青天のへきれき!。で、明くる日にラフマニノフの絵画的練習曲Op.39の第5番を弾きたくて持っていったら、もっと別の一緒にやった曲はないのか?と Sherman 先生に言われたが、これを弾きたいと申し上げて弾かせてもらった。そこで、その年度から教授陣に加わった Theodore Lettvin 先生が僕を気に入ってくださって門下となった次第。

かくして、僕の父親の影響がまったくない状況下でまったく偶然に巡り合ったこの先生が、今の自分にとっての本当の大恩人となった。

続きは次回に!

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