津山国際総合音楽祭
瀬戸大橋が開通した1987年に第1回津山国際総合音楽祭が開催された。父、渡邉曉雄が、その晩年の大仕事として命をかけて創始した音楽祭だ。あらゆる市民を巻き込むのが夢であった父は「総合」の文字を入れるのにこだわった。歌謡曲から「お母さんいらっしゃい」まで、音楽であらゆる層の人たちに感動を!がスローガンであった。当時の作陽音大の理事長は、なぜ「作陽音楽祭」ではいけないか、東京の自宅まで問い詰めに来た。地方の私大の名前を冠にしたら、音楽世界は注目しないと、理路整然と説いて話したと、後程知らされた。作陽音楽大学が縁の下の力持ちになってこそ、作陽の名が全日本に轟くという父の見識が、いかに正しかったか・・。 その初回の「津山国際総合音楽祭」の総合プログラムの内表紙 以下2ページが全プログラム。 その時の音楽副監督を勤めていた船山隆藝大教授が、僕を助監督に引き込む提案をした。父の本気度アップにつながる、渡邉家総動員で当たる体制づくりだ。僕の履歴書を「預からせてください」と言った船山が、作陽音大の根回しを行い、特任助教授という形で年に数回来て教えることになったのが、その第1回音楽祭の次年だった。 第2回の津山国際総合音楽祭の開催に向けて、各種の会議が行われ、そこに自分が全部出席させられた。 地元からは、「マーラーだかラーマだかしらんが、そんなの無理だ」との強い反対意見が第2回に対しても続出していた。 この非常に面白い企画に、作陽は燃え上がり、教職員は音楽に携わって本当によかったと自覚した。 なにしろ、父は津山にアパートを借り、津山用に車まで購入していたのだ。大変な熱の入れようであった。 第2回津山国際総合音楽祭の開催年、1990年の6月22日に父が亡くなった。奇しくもその日は父が創めた日本フィルハーモニー交響楽団の創立記念日であった。
日本人の作品と、松村禎三「巡礼」
2日続けて日本人の作品を聴いた。 松村禎三、三木稔、そして高橋裕。松村は没後8年、三木は没後4年、そして高橋は昨年還暦を迎え、芸高教諭の籍を今年度で卒業である。 明らかに輸入物の西洋かぶれ的な音創りから脱却し、東洋、もっと言えば日本独特の魂を持った音楽が生まれている。 松村と三木は二人とも東京都狛江市在住であった。私の妻が長年住んだ町で、我々も新婚時代に過ごした地だ。そんな歴史から狛江独自の音楽みたいな物を感じた。和音、旋律、それらが狛江の土地の独特な雰囲気とか薫りを醸し出していた。 僕が、その成立に大きな役割を果たした松村禎三晩年の大作、ピアノのための「巡礼」という作品の偉大さを、涙ながらに力説していた松村の側近に、終演後の打ち上げで会った。 いわく、「あの作品は渡邉さんに会わなければ成立しなかった」とのこと。 そう言えば、松村の声楽曲「貧しき信徒」を聴いた時に、あまりの大きな感動に、松村にピアノパートだけでもリサイタルで弾かせてくれと哀願してた自分がいた。松村には、若い頃に書いた「ギリシャによせる2つの子守唄」しかピアノ独奏の作品がなかったのだ。 ある夏の日に、突然松村からお電話をいただき、君が僕に書け頼んでいたピアノの作品だけど、もしかしたら書けそうなんだけど、という。 音楽が閃いたといい、出だしを書いたとおっしゃったので、是非聴かせてくださいと臆面もなく申し上げ、妻と二人で、その電話を切ったその足でお宅に大急ぎで伺った。 先生の独特な、左肩が少し上がり、祈るような神々しい雰囲気で、最初のフレーズを弾いてくださった。 その素晴らしい魅力溢れる音楽に、直感で、これは名曲が生まれると確信した。 あの日は自分にとって非常に大切な日になった。 そのあと、お孫ちゃまの手を引いて皆で多摩川の花火を見に行った。 自分は49歳であった。 |