セオドア・レトヴィン先生

僕が19歳だった1968年9月の新学期から、当時42歳だったセオドア・レトヴィン 先生についた。当時のレトヴィン先生は年間80回前後の演奏活動をしていた現役バリバリのコンサートピアニスト。そのレッスンは12人の生徒を週1回教えるというもの。朝7時から始め、休み無しで夜7時まで。そしてその30分後の7時半から夜中12時までマスタークラス。そこでその日のレッスンで弾いた曲を皆の前で弾かされる。レッスン室にはコーヒーメーカーの他にトマト、キュウリ、ニンジン、チーズ、パンなどがあり、ご自分で召し上がる他に、力み過ぎている学生に、弾いている最中に口に押し込む。これが実におかしかった。4拍子の曲を「3拍子に勘定しろ」だの、キュウリ食べながら弾かされたり、挙句の果ては、リズムの悪い生徒に対し、ピアノの蓋の上にあがって先生自身が飛び回って踊りだす。体重100キロ超の、まるで肉屋のオヤジ風の先生が乗ってもピアノの蓋は割れないと初めて知った。牛一頭を背負って船からの積み下ろし作業をしたという先生の学生時代のアルバイトの話は、誠に真実味を帯びていた。本当にダイナミックな先生だった。

 

そのレトヴィン先生が2か月のヨーロッパ演奏旅行に出ることになった。約10曲の協奏曲を弾くツアーだとのこと。マスタークラスの最中に「誰かリハーサルで伴奏したい人いますか?」と聞かれた。「是非やらせて欲しい」と僕が挙手。それ以来、彼のご自宅にしょっちゅう行っては伴奏をするようになった。夜8時ころからリハーサル。チャイコフスキー、皇帝、モーツァルト20番、24番、リスト「死の舞踏」、R.シュトラウス「ブルレスケ」、ラフマニノフ2番、パガニーニ狂詩曲、サンサーンス2番、ブラームス2番などなど。これら10曲を一晩で練習。終わると夜中3時。みんなで寝ようと、僕は長男ローリィちゃんの室のベッドに。次の朝7時には「bright and ugly!」と先生に起こされる!日本語訳「不愉快な朝だぞ!」(笑)。

 

ずいぶん何回もリハーサルに行った。そこで本当のプロの練習というものを知る。「なんでここが弾けない」と怒り、「いや、こうすると弾ける」等々、苦労をさらけ出していた。ピアニッシモを上手に弾くには「象の足を連想する」と言い出す。あの体重なのに足音は聞こえない。あれがピアニッシモを弾く神髄とのこと。先生の指の爪の根本から出血したこともあった。ブラームスPコン2番だった。弾けなくて、とてつもなく大きな音で弾きだし、ピアノが本当に壊れそうだった。あの大きな人がゴリラのように弾く。プロの凄まじさに圧倒された。

 

サンサーンス2番をボストン交響楽団の定期演奏会で当時の音楽監督のスタインバーグ(William Steinberg)指揮で弾いた時のこと。その恒例のシンフォニーホールでのオープンリハーサルで、耳打ちするようにスタインバーグが「な~んてつまらねぇこと弾きやがるんだ」と先生に言う。そしてほとんど倍ちかいモーレツなテンポでやりだした。レトヴィン先生はついて行けずに音をはずしまくり。そのリハーサル後に「Yasuo, come with me!」と彼の家に引っ張り込まれ、その晩の深夜2時くらいまでかかって全曲を倍の速さで弾けるように猛烈な特訓。翌日からの4日続きの本番は大成功だった!

 

隣のロードアイランド州の首都プロヴィデンスのアマチュアオケがショパンのPコン1番の練習ピアニスト探してるらしいけど、ヤスオ弾いてみるか?と先生に言われた。その日から3週間後。もちろん弾いたことなかったけど「やります」と答えて2週間たったころに、今度はカーネギーホールでR.シュトラウスのピアノ協奏曲「ブルレスケ」を1か月後に弾けるピアニストを探してると校長経由でのニュースを察知。すぐさまレトヴィン先生に電話して「譜面だけでも見せてください」と頼みこんで彼の家に直行。彼は僕にショパンをやらせてたから、他の人を考えていた。「絶対オレが!」と猛烈に意気込んで、楽譜だけでもの痛烈な思いが通じ、結局僕がやることになった。その電話の8日後が最初のオケ合わせ。もちろん全部カンペキにアンプして行った。まだ覚えている。1971年11月11日にレトヴィン先生宅にブルレスケの楽譜を拝借に行き、11月19日がブルレスケ初オケ合わせ。その4日後にショパン1番をオケと弾き、憧れの殿堂カーネギーホールのステージには12月11日に。この演奏会は幸運にも母が来ていて聴いてくれた。レトヴィン先生ご夫妻、それに親友たち3人もボストンから来てくれた。本当に思いで深い演奏会となった。トランジスタラジオのスピーカー前に置いたマイクで録音したカセットテープがあり、今でもたまに聴く。アナウンサーがうまく名前を発音できず、「ヤスエ~・ワンタナーベー」となっている。

 

当時22歳。オケはニューヨークユースシンフォニーオーケストラで、指揮者はアゼイヤ・ジャクソンだった。

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